こんばんは、原田です。
前回の記事に引き続き、
今回も「赤木の熱意」について考えていこうと思います。
前回の記事をまだ読んでいない方は、読んでから続きを進めてくださいね。
前回は、
・人にはステージ(成長段階)がある
・赤木の熱意は間違っているとも正しいとも言えない
・エネルギー(熱意)自体を否定してしまったら何も生まれない
・エネルギーをどこに向けるかが大切
ということでした。
前回の記事に対しては、返信をもらいました。
今回はお一人だけ紹介したいと思います。
=======ここから=======
こんばんは。
今日のテーマ、赤木の熱意や行動は正しかったのか?
まずは原田さん同様、赤木の行動はそれ以外に選択肢がなかったのだと思います。
私も、現役時代はキャプテンをする機会が多かったのですが、「厳しさ」というのは常に持っていて、さらにそこだけに成長を見ていたと思います。
指導者になり、サッカーの原理・原則・本質を勉強し現在はまた違う考えに至っています。
そもそもスポーツをすることで得られる「楽しさ」とはなんでしょうか?
今から話すのは、私の指導の恩師が「楽しい」ということについて話していた内容になりますが、私自身の現在の考え方に繋がっているので記させていただきます。
「楽しむ」には2種類存在する。一つは「fun」、もう一つは「enjoy」。どちらも英語で「楽しむ」という意味ですが、根本的には違いがあります。
「fun」は「楽しいという感情そのもの」、「enjoy」は「楽しむために行動すること」、という意味になります。(文法的に間違いがあったら申し訳ありません)
結論、その恩師はどちらも必要であるとおっしゃっていました。
この考えを私なりに解釈すると、前者は「Princeton Offense」「アメリカのストリートバスケ文化」、「ブラジルのストリートサッカー」などに共通する本質的な楽しさであると考えられます。また後者は「スラムダンクの赤木の考え方、厳しさ」を追求する考え方に繋がるものだとおもいます。(インターハイは赤木の最大の目標であり、そこには「楽しさ」があると考えます)
結果、なにが言いたいかというと、私は両者の「バランス」が大切だと思います。
チームの中には、ある一定の厳しさは存在するかと思います。それは真摯に取り組む姿勢であったり、人として当たり前のことであったり、チームとしての約束事であったり、様々であると思います。しかしながら「厳しさ」だけでは、いつの間にか「fun」の要素が消えてしまい、本質的な楽しさが失われたものになってしまいます。
また反対に「fun」のために「厳しさ」も必要なると思います。それは先に示したこと「厳しさ」がゼロの状況だけでも「本質的な楽しさ」は失われてしまうからです。
指導者は特にこのバランスで悩んでいるのではないでしょうか。バランスに対する基準はチーム、環境、レベル、状況によって様々ですが
日本では特に、後者に偏りすぎている場合が多いかと思います。
しかしながらそれは、赤木同様それ以外に選択肢がないからではないでしょうか?
本質について学べる環境、指導者がいなかったのかと思います。
=======ここまで=======
僕もそうでしたが、
赤木のように熱意をぶつけてしまう時期というのは、
多くの人が一度は経験していることなのかなと思います。
それくらいステージというのは、多くの人に当てはまるし、
漫画の物語というのも、僕らの人生に繋がっていることが多いです。
で、返信の中で言われている
「二種類の楽しさ」というのは、面白い発想ですね。
「fun」は、楽しみそのもの。
「enjoy」は、楽しむための行動。
funには、楽しさだけが含まれていますが、
enjoyには、楽しむための行動なので、時には「厳しさ」が含まれている。
ということですね。
この「楽しさには二種類ある」というご意見、
とてもわかるような気がします。
確かに、funだけでは楽しくないというか、
本当の楽しさというのは、何かに対して、熱意をもって向かっている中で得られるもので、
enjoyの部分、目標を達成するための厳しさや真剣さがなかったら、本当の楽しさではないように思います。
そういった意味で、
この二つの楽しさのバランスは、
非常に大切なことだなぁと思います。
もう少しわかりやすく話しましょう。
「楽しさ」の中には、
・抑圧から解放されて、エネルギーが放出する楽しさ
・自分の中から湧き上がってくる目的を達成したときに感じる、エネルギーが凝縮する楽しさ
の二種類があると思います。
ちょっと抽象的ですが、
スラムダンクを例に話していきますね。
スラムダンクの中では、安西先生が指導者であり、
安西先生は、過去に「白髪鬼」として、谷沢に厳しい指導をしていました。
このとき、谷沢は安西先生から厳しい指導を受けて、
「デビル(安西先生)の想像も及ばない選手になってやる。くそっ!」
とヤケクソな気持ちでバスケに向かっていました。
明らかに、本来の道から外れてますよね。
その結果、自分が本来進む道ではなくて、
”安西先生を認めさせるために”アメリカに渡り、
最終的には、谷沢は自分を見失ってしまいました。
そもそも、行動のエネルギーが
「安西先生に認めてもらいたい」
という承認欲求からくるものなので、
自分の中から湧き上がってくる純粋なものではないですよね。
だから、道を踏み外してしまいました。
ここで、よくあるのが、
こういった厳しい指導で押さえつけられた選手が
その指導者の抑圧から解放されたときに、
「よっしゃー!厳しさがなくなったから自由だーー!!!」
と、凄く楽しい気分になるというパターンです。
これって、小学校のときに、
先生がいるときは良い子にしているけど、
先生が教室から出て行った瞬間、ふざけている子供と一緒で、
楽しいは楽しいでも、ただエネルギーが漏れているだけなんですよね。
エネルギーが漏れている瞬間って、気持ちいい感じがあります。
でも、この楽しさというのは、
ただ厳しい環境から抜け出せたという楽しさで、
自分の中から自然と湧き上がってくる「楽しい」っていう感情とは違って、
何も目的がない「ただの感情」っていう感じなんですよね。
で、これを赤木の物語に当てはめると、
赤木の熱意が嫌だと言って、
「お前とバスケをするのは、暑苦しいよ。そんな真面目にバスケしてどうすんだよ。ただの趣味だろ?」
みたいに、真剣さや一生懸命さというエネルギーを否定してしまったら、
そこには「抑圧から解放された楽しさ」しか残らないということです。
一生懸命何かに向かうことだったり、
そうやって向かっていた自分の過去を否定したら、
本当の「楽しさ」ではないということです。
言い方を変えたら、
楽しいは楽しいけど、目的がなくて、
ただ「ふざけている」楽しさと変わらない
という事です。
ふざけると楽しいの違いって、
「目的があるかどうか」
が関係してきていると思います。
じゃあ、もう一つ楽しさ、
「自分の中から湧き上がってくる目的を達成したときに感じる、エネルギーが凝縮する楽しさ」
は、どういう感じかというと、
山王戦の赤木が感じている「楽しさ」ですね。
山王戦で赤木は涙を流します。
自分の熱意を受け取って残ってくれた仲間たちがいたからこそ、ですよね。
小暮は、赤木と共に、
何人もの部員が辞めていったところを見てきて、
赤木が誰よりも勝ちたいと思っていることを知っているからこそ、
この場面での赤木の涙を温かい目で見守っていますよね。
ここにある「楽しさ」というのは、
先ほどの「楽しさ」とは、ぜんぜん違うものですよね。
楽しさというよりも、「温かさ」って感じですね。
これは、赤木が安西先生から厳しい指導を受けて、
その中で出てきた目的に向かった結果ではもちろんなくて、
自分の中から湧き上がってくる目的に向かって進んだ結果です。
なおかつ、過去の自分の熱意を引きついで、
「勝ちたい」というエネルギーを持ち続けていたからこそ、
それを受け入れてくれる仲間が集まってきたんですね。
「enjoyは、楽しむ(fun)ための行動」
という風に、返信の中で言ってもらいましたが、
厳しさや真剣さが”自分の中から湧き上がってくる”ものなら、
そこに対して、自分たちで向かっていけます。
そして、その先に、「本当の楽しさ」があるはずです。
このスラムダンクの物語を考えることは、
指導者にとっては、特に大切なことだと思います。
赤木の熱意に対しては、
「部活動制度自体に問題があるから、勝ちを諦めています」
という意見ももらいました。
または、
「勝ちを諦めて、楽しむことだけを重視しています」
という意見もあると思います。
でも、そこに、
「目的」や「熱意(エネルギー)」がなかったら、
その先で得られる楽しさは、ふざけているときの楽しさのようなもので、
心から楽しい、温かい気持ちになれるものではないと思います。
指導者は厳しさだけを求めてはいけません。
そうなったら、選手がどうなるのかは、
谷沢の物語が示してくれているとおりです。
厳しさだけで押さえつけてしまうと、
選手は確かに、指導者の言うとおりに動きますし、
ディフェンスを激しくしろといえば、その通りに動くかもしれません。
でも、そういった環境でバスケをしている選手たちは、
「楽しさ」を履き違えてしまいます。
たとえば、その歪んだエネルギーは、
相手に勝つことで「快感」みたいなものに変わることもあります。
どういうことかというと、
やらされた練習で押さえつけられると、
勝ちを目指していくのですが、そこにある目的は、
「自分たちの厳しさを正当化させること」
になってしまっているのです。
だから、勝たないと終わりという息苦しさが生まれるし、
相手のミスとかに対して、何となく冷たい目で見てしまったりします。
この価値観は、バスケをしているときに限らず、
バスケを終えた後も、人生に影響していきます。
実際に、高校生とかで厳しい指導を受けている子達は、
バスケをしているときは、指導者の言うことをちゃんと聞いてるし、
挨拶をしたり返事をしている姿だけを見たら、「凄く良い子」に見えるんですが、
その指導者やコミュニティから抜けたら、抑圧からの開放で、道を踏み外してしまうことがあります。
「もうスポーツはやりたくない」
「一生懸命、真面目に、何かをするのは馬鹿馬鹿しい」
みたいになってしまう子もいます。
指導者がいるときだけ良い子で、
いなくなったら、ふざけて遊んでいるなど。
そういう高校生を見たことがありますが、
本当に、「バスケ、何のためにやってるんだろう」
って思います。
バスケをすることで視野が狭くなるなんて、
バスケをやらない方がいいんじゃないか、とすら思ってしまいます。
大人の責任は、本当に大きいです。
ちなみに、最初に紹介した返信は学生の方からです。
「学校で勉強をしなさい」
と言う前に、大人が楽しみながら勉強をして、
その姿を見て子供たちが勉強を自然としていく
っていうのが、大人と子供のあるべき姿だと思います。
部活動制度や環境に対して、言い訳をして、
それに歯向かうような形で、道を変えていっても、
その先にあるのは「歪んだ正義感」みたいなものです。
楽しむことを忘れて、厳しさだけが先行したら、
自分と選手の楽しさが減って、損をするのを自分です。
熱意を否定して目的を見失えば、
楽しむが「ふざける」になってしまいます。
過去のエネルギーを引き継いで、
今に対してエネルギーが凝縮される楽しさは、
凄く温かい気持ちになるし、一体感があります。
そんな温かさを体感したことがあるからこそ、
これからも、そういう楽しさを体感したいなと思っています。
赤木の熱意は、間違っていたのか?
正しいか間違っているかに限らず、
今いるステージで、正しいと思うことをして、
熱意(エネルギー)を否定せず、方向性を変えること
が何よりも大切なことだと思います。
『スラムダンク』が日本でこれだけ売れているのに、
どうして、まだ厳しいだけの指導現場があるのかわかりません。
でも、僕も昔からこういう視点でスラムダンクを見れたかと言われたら、
もちろん、そんなことはないので、いつ知れるかどうかは人それぞれということですね。
この視点も一つの視点ですしね。
漫画も視点次第で、いくらでも楽しめるし、
沢山のことを学べる教科書に変わりますね。
谷沢や安西先生、赤木の人生が漫画の中に凝縮されています。
それぞれのキャラクターたちの人生の中には、
沢山の教訓が含まれていて、それを短時間で学べるのが「漫画」です。
本当に素晴らしい文化だなぁと思います。
赤木の熱意は、間違っているのか?
是非、『スラムダンク』を読み返してみてください。
もしかしたら、また続編を書くかもしれません。
やっぱり、『スラムダンク』は最高の漫画ですね。
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