昨日、とある高校生とバスケをしたのですが、
部活のことを話していると、こんな事を言っていました。
「バスケは好きだけど、部活の時間は辛いですね」
話を聞いてみると、
・休日の練習時間は4時間~5時間
・ただ言われるがままに走る練習
・練習後は強制的に筋トレと自主練
・「練習モード」に入ると監督が怖い
ということらしい。
その指導者の方は、地区にいる「強豪校」のバスケを「正解」としていて、
同じような練習をし、同じようなバスケを目指しているそうです。
高校に入学した理由も、バスケ部に入った経緯も、
練習時間も、身長も、体格も、練習環境も、部員数も、
何もかも違うのに同じことをしようとするとどうなるのか。
それは選手たちの顔が物語っていました。
部活動の時間がキツイ。
バスケットボールが楽しくない。
そもそも、指導者の方自身がバスケットボールを楽しめていないから、
それがそのまま選手たちに伝わり、選手たちもバスケットボールを楽しめていない。
走る練習、筋トレも確かに必要かもしれないけど、
そこに「選手の意思」がなければ、スポーツをする時間がストレスになり、
好きだったはずのバスケが嫌いになって、スポーツが嫌いになってしまいます。
そもそも練習量を増やしたとしても、
練習環境や身体能力の差を埋める事はできず、
「強いチーム」に勝つ可能性は逆に狭まっていきます。
自分のシュートフォームを知って修正する。
そうした方がシュート率が高くなる事があります。
スクリーンプレーの連携を高める。
そうした方が得点が入るようになる事があります。
そういった試行錯誤が結果として、
「自分たちでチームを作っている」という感覚に繋がり、
「このチームで勝ちたい」という選手たちの意思に繋がっていきます。
そうなって初めて、走る練習だったり、自主練だったり、
そういった勝つために必要な練習を自分の意思でできるようになります。
「勝つためには厳しさが必要だ」
という視点だけで指導をしてしまう事で、
バスケを自分の努力で上手くなる楽しさの全てを奪ってしまうのは、
あまりにも勿体無いの一言です。
指導をすることがストレスになるなら、
選手と関わることでストレス発散をしているなら、
それは明らかに「指導」ではないし、誰も得しません。
選手は監督のために、監督の目を気にしてプレーしていたら、
常に「周りの人から評価されないと自分の価値に気付けない」人間になってしまうし、
誰かに指示をされないと動けない、常に正解不正解の二択に縛られる人間になってしまいます。
指導をすることは、教育をするということです。
高校の部活の時間は人生のほんの一部ですが、
そのたった2年ちょっとで、その後の10年が変わる可能性だってあります。
それくらい大人は子供に影響を与えています。
強豪校には強豪校の戦い方があるように、
それぞれのチーム、選手には、それぞれの戦い方があります。
個性も、感性も、性格も、体格も、環境も違えば、
一つの型に当てはめるなんてことはできないはずです。
型はあくまで型であって、
そこにどんなものを注ぎ込むか、
どんな形に変えていくかは、型を使う人によります。
…と、色々なことを考えさせられました。
一番難しいのは、
指導者の数だけ指導の理念や方法がある
ということです。
指導者の数だけバスケの形があるし、
バスケの形に絶対的な正解はないですもんね。
それに、もしかしたら、
そのバスケをすることで選手は何かを得ることができるのかもしれない。
今のその辛い経験が、その後の何かに繋がる可能性があるかもしれない。
だから、道場破りをすることなんてできないし、
そんなことをして道を無理やり歪めてしまったら、
反作用が起きて、道を踏み外してしまう可能性があります。
だから、凄くもどかしいけれど、
僕は直接何かを伝えることはできませんでした。
その分、僕ができることは情報発信をすることで、
一人でもバスケの楽しさと上達や勝利を繋げられる人が増やして、
その一人からまた一人へと、どんどん良いエネルギーを広げていくこと。
自分自身も中学高校の時にキャプテンとして、
強豪校のバスケを正解として、環境の違う自分たちのチームに、
自分が正しいと思っていた価値観を押し付けていた経験があります。
でも、その経験があるからこその今だし、
その時のチームメイトとは全力でバスケに打ち込みました。
だからこそ、
そういったバスケが何かに繋がるかもしれない、
必要な段階なのかもしれないと思う自分もいます。
でも、知識を学び続ける大切さ、
別の路線で戦う楽しさも今ならわかります。
ネット上で情報発信をしている人も含めて、
本当に沢山の方が指導者という立場でバスケを教えています。
その中で、正解は人それぞれ違うけど、
「スポーツはストレスを溜めるためにやるものではない」
ということは誰もが思っている正解だと思います。
これは、いつの時代でも当てはまるはず。
スポーツが誰かを批判するため、
自分のストレスをためるためのものなら、
スポーツをやっている意味がありません。
自分の考えが絶対だ。
自分の思い通りに他人に動いてほしい。
自分は何もかも知っているから凄いんだ。
そうなればなるほど、
スポーツの価値はどんどん下がっていきます。
他人の言動は、天気のようなもの。
自分でコントロールしようとしてはいけません。
安西先生の桜木への関わり方のように、
「道楽」として選手の成長を楽しめるだけの
謙虚な姿勢、器の大きさ、人間力、向上心、知識欲が
大人は常に必要だと思います。
大人には学校はありません。
でも、その分、
関わる人から学校以上の学びを得られて、
常に毎日何か新しいことを学ぶことができます。
関わる人の成長は、自分の成長。
自分の成長は、関わる人の成長。
「道楽」
道を楽しむ。
道を歩むときに、
上も下もありませんよね。
あるのは、「先」と「後」だけ。
だから、大人が子供の上に立つことはないし、
大人は子供と一緒に前に進んでいけばいいし、
大人は子供よりも半歩でも前に進んでいればいい。
時には、子供が大人よりも半歩先に進むかもしれません。
でも、
目指しているところが同じなら、
「おれの後について来い!」とはならず、
「お、自分も負けないぞ!」と切削琢磨したり、
「先でも後でもどっちでもいいや!」と仲良く前に進める。
さすが安西先生。
良い言葉を残してくれますね。
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