武井壮「キツイ練習をさせれば勝てるなんて指導は指導じゃない」

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こんばんは、原田です。

今日は、武井壮さんの素晴らしいツイートを参考にして、指導者の在り方や部活動についての話をしたいと思います。武井壮さんは百獣の王を目指している人ですが、いつも考えさせられるツイートをしていて、スポーツだけではなくて色々な業界に影響を与えています。武井壮さんのツイートはこちら。

今日はこのことについて考えてみようと思います。

 

 

武井壮さんは、「知識を学ばずに、厳しい練習をすること」に対して、

「それは指導とは言えない」ということを言っていますが、武井壮さんはどんな指導が良いと考えているんでしょうか?

 

以前、こんなことを呟いていました。

 

武井壮さんが考える、コーチの最高の仕事は、

「いち早く自分(コーチ)を必要としなくさせること」

だと言っています。

 

 

これまた考えさせられる呟きですね。

 

 

今の日本の部活動には、バスケで言えば、

「楽をしたら上手くなれるはずがない」

「勝つためには厳しい練習が必要だ」

「選手を動かすには強制力が必要だ」

という考え方の指導者もいます。

 

 

 

指導者が怒れば怒るほど、選手は指導者のためにプレーするようになります。

 

指導者に怒られないように…

指導者が求めているプレーをしないと…

指導者の言うことだけとりあえず聞いておけばいいや…

そうなればなるほど、選手は指導者に依存し、

指導者は選手を支配する形の人間関係になります。

 

こうなると、どうなるのか?

 

 

 

選手の本来の目的は、

「バスケを楽しみ、上手くなり、勝つこと」

なのに、そこから外れていってしまいます。

 

そして、指導者は、

選手を自分の思い通りに動かすことに快感を覚え、

「よしよし。オレの言った通りだ。」

と自己満足に浸ってしまいます。

 

選手は本来の目的から外れていき、

いつしかバスケをやる楽しさを見失って、

部活動をする時間がただのキツイ時間、我慢の時間に変わり、

バスケをする楽しさは、指導者が見ていない練習後に遊ぶことだったり、

ただただ個人の能力(シュート力やドリブル技術)を高めることに変わってしまいます。

 

 

指導者にとっても良いことなんて一つもありません。

 

自分自身の知識不足、指導力不足によって、

自分自身に不満が溜まり、それが選手への「期待」に換わり、

その期待に応えられたら満足、応えられなかったら怒る。

…という構造に気づくことができなくなります。

 

「オレがいないと選手は動かない」

「オレが的確な指示を出したから選手は上手くなったんだ」

「オレは勝つために必要なことを言ったのに選手が実行しなかったから負けたんだ」

というように、頭の中は「オレオレ」ばかりです。

 

 

自分が絶対だ!と思えば新しい知識は入ってきません。

 

そうなれば、「厳しさ」や「練習量」だけを信じることになります。

なぜなら、それらは「達成感」を感じることができるものであり、

「根拠のない自信」というものを身につけさせてくれる魔法のようなものだからです。

 

 

厳しいことをすれば勝てる。

楽をして勝つことなんて有り得ない。

 

そういった考え方に固執していけばいくほど、

選手は本来の道から外れてバスケを楽しめないし、

指導者は「オレ」に固執して新しい世界を知れません。

 

 

じゃあ、知識を学ぶのは、どこまで学べば良いのか?

って話になりますよね。

 

それは、生きている間ずーっと、だと思います。

 

勉強って不思議なもので、

何かを1個知ったら、知らないことが10個増えます。

 

勉強すればするほど知らないことが増える。

だから、勉強すればするほど世界が広がって、

勉強すればするほど自分に自信がなくなっていきます。

 

「まだまだこんなに知らないことが沢山あるのに、自分が誰かに何かを教えることなんてできるのか?」

 

そんな気持ちになります。

 

 

でも、そんな気持ちがあるから更に勉強できるし、

それが「謙虚さ」に繋がって、上から目線の指導ではなくなるし、

「自分も選手たちと一緒に成長していこう」

という気持ちにさせてくれます。

 

今の時代は、誰かが誰かの上に立つという構造は崩れてきています。

 

今はインターネットがあります。

 

誰も知識を学べる時代なので、

みんなで協力した方が絶対に効率的だし、

何よりも楽しいです。

 

 

 

武井壮さんが言っている事は、

決して「サボれば良い」ってことではありません。

 

「サボること」と「効率よく学ぶこと」は別物です。

 

具体的にバスケの話をすれば、

10時間走る練習をしたら、「走ることは上手くなる」けど、

それが「バスケットボールが上手くなった」と言えるかはわかりません。

 

言えるかもしれないし、言えないかもしれません。

 

例えば、その10時間のうち、

たった1時間を「新しいフォーメーションを学ぶこと」

に使ったら…

 

新しいフォーメーションを知れば、

チームメイト同士でプレーについての意見を言い合えるし、

一つの型があればオフェンスに自信を持てて緊張しなくなるし、

チームとしてオフェンスの目指すべき形が明確になり一体感が生まれ、

良いシュートが打てるチャンスが今まで以上に増えていきます。

 

 

走ることもバスケの一部です。

 

 

でも、それだけがバスケではありません。

 

 

走る練習を沢山すれば、達成感を得られて、

「走ること」というバスケットボールの土台は創られます。

 

でも、それは土台であって、それ以上でもそれ以下でもありません。

 

「厳しいことをしなければいけないから」

「身長が低いなら走って勝つしかないから」

「楽をして上達をする勝つことなんて有り得ないから」

そういった気持ちから走ることに固執することは、

バスケットボールの楽しさをどんどん遠ざけていくものです。

 

 

身長が小さければ走り勝つ。

ルーズボールやドリブルで生きる。

 

これももちろん事実であるし大切なことだと思います。

 

 

でも、それが単なる根性論で目的と手段を履き違えてしまうと、

道を踏み外してしまいます。

 

 

「他人に過剰な期待をかける」

ということは自分の足りないエネルギーを

自分で高めようとせず、他人からもらうということです。

 

エネルギーをとられた人は、いつもエネルギー不足になり、周りの目を気にしてバスケをするしかなくなり、

エネルギーをとった人は、期待通りに人が動かなかったらそれが「怒り」という感情に換わっていきます。

 

 

「あいつが怒られてるのは期待されてるからだな。」

「期待の裏返しだよね。」

という感じで期待することは良いことに使われている場面が僕は何度目にしましたが、

期待というのは、人間関係を窮屈にする可能性を秘めていて良いものだとは思いません。

 

…と、今日はこの辺で。

 

武井壮さんが言っている、

「コーチを必要としなくすること」とは、

お互いが自立して良い影響を与え合うことだと思います。

 

そんな場が増えていくことを願っています。

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