【大和籠球】勉強会@長野「なぜお辞儀と志をバスケットボールを通して伝えるのか?」

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こんばんは、原田です。

 

10月末、長野県の高校生チーム(母校)で勉強会を開催しました。

 

情報発信の原点ともいえる母校で、

これまで経験してきたことを踏まえたバスケを伝えることができ、

とても有難い時間でした。

 

※僕の高校時代のストーリーはこの記事の最後に紹介します。

 

 

午前中は「お辞儀×バスケ」を伝えました。

 

最初は半信半疑だった学生たちも、

実際に自分の身体で体験すると、

「これはやばい」

「まじでこれはすごい」

という言葉が漏れるほど驚いていました。

 

「これ」とは「自分の身体の可能性」のことです。

「こんなに身体には凄い可能性があったんだ」と氣付いて驚いていました。

 

何事も実体験がすべてですね。

 

大人が

「礼儀は大事だぞ」

「もっときちんと礼をしなさい」

と口でいくら言っても、自分がそれをやってなかったら子供たちは付いてきません。

伝えたいことが伝わりません。

 

まずは自分が実際に行動で示す。

 

「礼儀の大切さ」を伝えたいのであれば、

礼がどのようなものかを自身の身体で示す。

 

口だけの人にはならないように、

行動と体現で示していけるように、

そんな大人であり続けたいと思います。

 

 

「禮(礼)」というのは、死ぬまで活用できることです。

 

学校の勉強を否定するわけではありませんが、

「サインコサイン」とか「歴史の年号」とかを覚えたとしても、大人になったらほとんどの人は使いませんし、

今はAI(人工知能)が発展してインターネットが発展しているので、「記憶」に関しては完全に人間が劣っています。

 

今後、AIが更に発展し、

シンギュラリティ(技術的特異点、AIが人間を超える時)を迎えたら、

記憶や単純作業はAIに取って代わられます。

 

今は2045年にシンギュラリティを迎えると言われていますが、それは早まっているでしょう。

 

そんな時代に、人間がやれることは、

AIにはできない「クリエイト(創造)」です。

 

そのために必要なこと、

その時代を生き抜くために必要なことは、

「自分が人生を通して成し遂げたいこと(志)」を決めて、

それに向かって、禮(礼)で人と調和し協力していくことです。

 

禮は、まさにこれからの時代にこそ必要なことだと言えます。

 

 

「お辞儀」を「禮」に変えるためには、

7つの要点を二人一組でチェックする必要があります。

 

その「7つの要点(七要)」は武術の世界では”秘伝”とされてきているものです。

 

「秘伝のタレ」ってありますよね。

牛丼とか、そういう料理の世界で。

 

七要もその秘伝の一つです。

 

もともと、武人というのは

「国を如何にして守るか」という事を考えて生きていた人たちなので(日本でいう「侍」)、

そういう徳のある人にのみ、秘密で伝承されてきたものが武術を体得するために必要な「秘伝(七要)」です。

 

今は、それが公開されています。

 

なぜなら、先ほども話したように、

これからの時代は、一人ひとりが自分の志を立て、

禮によって人と調和し、身体の叡智を開く必要があるからです。

 

そうしないと、AIが進化していき、時代の変化が激しいこれからの時代、

「自分の生き方がわからない」と人生の迷子になってしまう人が増えてしまうでしょう。

 

 

・・・まさに、僕自身、高校時代はそうでした。

 

自分が何者かわからない。

自分が何を目指しているのかわからない。

ただただ勝つこと、上手くなることだけを考えて練習をしていた。

「何のために」「誰のために」がなかったから、自分の世界に閉じこもっていた。

「〇〇〇(NBA選手)みたいな選手になりたい」という憧れを追いかけるあまり、「自分の理想の選手像」が見えず、自分の成長やチームの成長を素直に喜ぶことができなかった。成長に氣付けなかった。

 

そんな高校時代でした。

 

 

そんな自分の経験を踏まえて、

過去の僕に伝えるような意識で、

 

・禮(礼)の意味と正しい形

・身体vs思考

・夢と志の違い

・漢字の意味

・日本について

などを伝えました。

 

あくまで、すべて「体験ワーク」ありきで伝えています。

単に僕が話をするだけの「講義」というような教えではありません。

 

一人ひとりの中から、

「氣付き」を得られるワークを伝え、

そのそれぞれの氣付きを全体でシェアしてもらいました。

 

一つの教えがあるのではなく、自分の中から自分なりの氣付きを得る。

 

それが禮の体験ワークで伝えていることです。

 

そして、禮(綺麗なお辞儀)は、

「バスケットボールの技術力の向上」にも繋がります。

きちんとした禮(礼)ができるとバスケが上手くなります。

 

そもそも姿勢がいいとなぜバスケが上手くなるのか?

を技術的な面と対人関係の面で伝えました。

 

ディフェンスへの応用についても。

 

 

 

また、志に通じる

「自分のなりたい選手像」

を出すワークも行いました。

 

高校時代の僕のように、憧れの選手はいるけれど、

自分の理想の選手像が明確になってないと迷子になります。

 

憧れの選手と常に比較して劣等感を感じたり、

強豪校のバスケが正解だと信じ、自分の成長やチームの成長が見れなくなってしまったら、

全国で1位にならない限り、いつか負けるバスケットボールを「楽しむ」という氣持ちを忘れてしまいます。

 

 

学生たちには

二人一組になってもらい、

いくつかの質問を投げかけて、

「自分がなりたい選手像」

を言語化してもらいました。

 

それは、ただ単に自分の好き嫌いだけで創るものではなく、

・自分の得意なプレー

・自分の好きなプレーや瞬間

・チームから求められている役割

を含めたものです。

 

なので、独りよがりのものではなく、

チームの目標にも通じる「理想の選手像」なので、

よりその目標に向かって行動していけます。

 

これは実際に「体験ワーク」をすることでわかります。

これも禮と同じで、

知識として良い悪いを学ぶのではなく、

「実際に身体にどのような影響があるのか?」

ということを”体験”することが重要です。

 

体験することで腑に落ちます。

腑に落ちるから行動できます。

 

この日は時間の関係で「理想の選手像」を出すことで終わりになりましたが、

その後は、具体的に自分がその目標に近づくために何をしたらいいのか?を二人一組でワークして出していくと、更に目標に近づいていけます。

※この方法については今回は割愛します。

 

一人ひとりが自分のなりたい選手像をチームの前で発表して拍手で終える。

 

素晴らしい時間だったなぁと思います。

 

もともと、江戸時代までの日本は「立志」という文化がありました。

13歳~15歳までに、自身の志(生きる目的)を決め、そうすることで初めて社会から「大人」として認められていたそうです。

そういう文化が何百年も続いていたのが、この日本という国です。だから、キリスト教のような「誰かが創った教え」というものが入ってきたとしても「自分は~ために人生を全うするって決めてる。そんな神を外において神頼みするような、他人に自分の人生を決めさせるなんてしょーもないことは必要ない」と(言ったかどうかは実際に見ていないのでわかりませんが)いう人が沢山いたから、今の日本は一つの宗教にすがるという事がないわけです。

 

でも、その文化は1945年の終戦後、戦勝国の戦略によって日本の中から消えてしまいました。

勝った国は負けた国が二度と対抗してこないように(自分たちが脅威にさらされないように)、まずは国の言葉を奪い(旧字体には元々深い意味とエネルギーがありました)、食を変え(玄米から小麦へ)、教育を変え(「志」という言葉を教科書からなくし、代わりに「夢」という言葉に置き換えた)、その国に住む人たちが自分自身の誇りや文化に氣付かないようにしました。それが77年続いているのが今です。

 

これはインボーロンでもなんでもなくて、実際に僕らの今までの教育を考えたらそうだったことがわかります。そして、勝った国が負けた国を統治しようとすることは(良いとはもちろん言えませんが)自然なことです。このあたりは実際に調べたら誰でも知れることで、もはや”普通のこと”になっています。

 

 

僕が過去に高校生にお辞儀の力を伝えた時、

「立志っていう文化が中学校にあった人いる??」と聞いたら、一人手を挙げた子がいました。

 

その子は田舎の村出身だったのですが、中学3年生で自分の志を考え、志を立て、それを色紙に書き、その志とストーリーを暗記して、前項の前で一人ひとり自分の志を発表していたそうです。

 

すごいですよね、15歳ですよ。

 

でも、それが普通だったのがこの日本という国だったわけです。

実際にその文化が今でも残っているという話を聞けて嬉しかったし、

「ああ、本当に昔は立志の文化が当たり前だったんだなぁ」と思わされました。

 

 

皆さんはどうでしょうか?

 

立志式ってありましたか?

 

 

僕は「志」が何か、数年前まで知りませんでした。

当然、立志なんてこともしていませんでした。

 

自分の志を立てていませんでした。

 

自分が何者かわかりませんでした。

 

自分が人生で何をしていけばいいかわかりませんでした。

 

 

だから、僕は迷子だったのです。

 

人生は一度きり。

人は誰もがいつか死ぬ。

それがいつやってくるかはわからない。

 

誰もが知っていることですが、

死を意識しない限り、

「自分の人生は何のためにあるんだろう?」

「自分は人生で何を成し遂げたいんだろう?」

という、人生で最も重要な問いの一つを考えずに何となく過ごしてしまうものです。

 

そうやって「自分探し」をしている人が今の日本には沢山います。

 

 

「自分探し」って、何なんでしょう。

 

自分を探している。

じゃあ、「自分探しの旅」をして世界を旅したり、今の嫌なことから逃げて解放されたとして、

ある場所に行って「ああ、ここに自分がいた!!」となったとしたら、それって、本当に「自分」なんでしょうか。

 

自分探しをして自分が見つかった人と、見つからずにむしろ更に自分がわからなくなる人、

どちらの方が多いのでしょうか。

 

もし仮に、自分探しをして、

どこかに自分がいたとしたら、

それは「誰かに創られたもの」です。

 

なぜなら、自分は自分で創るしかないからです。

 

「自分探し」をして、どこかに「自分」というものがあったとしたら、

それは自分は誰か、どこかに依存していて、自分以外の誰かや何かの枠組みの中に入るという事です。

 

 

「自分の人生は自分で創る」

 

これは僕が自分探しをしていた時、

武学の師匠から言われた言葉です。

 

今まで自分探しをしていた自分にとって、衝撃の一言でした。

 

 

志も、自分で立てない限り、決まりません。

 

自分で自分の生き方を決め、

自分で自分の人生を創っていくのです。

 

誰かから

「お前はこういう人生を生きたらいいよ」

「お前の志は~~~だよ」

なんて、言われてその通りに生きたとしたら、

それってなんか変ですよね。

 

人の枠組みの中で生きている、何かの洗脳教育と変わりません。

多くの日本人が「宗教」という言葉に嫌悪感を抱くのは、宗教というのが「誰かが悟った道を説く”教え”」であり、

自分自身で何かを決めて、自分自身になるというものではないと身体(DNA)で感じているからでもあるでしょう。

 

元々、日本は「神道」という考え方がベースです。

 

「神教」ではなく「神道」

 

神の教えではなく、

・自分自身が神になる道

のことです。

 

それが「神社参拝」の仕組みでもあります。

神社とは願い事を言ったりお祈りをしに行く場所ではなく、「自分自身が神である(創造主)」であることを思い出す場所です。そして、宇宙や自然、天といった人知が及ばないこの世界を創造している大いなるもの(「神」でも「仏」でも言葉は何でもいいです)に対して、自分の志を奏上し(「私は人生を通して~のために生きます」と宣言する)、そのために必要な情報(閃きやご縁)を降ろしてくる場所です。

 

※神社の仕組み

本殿に行くまでに鳥居の前で禮(礼)をすることで、自身の身体と精神を禊いで(みそぐ、身を清める)、自分自身の御霊(魂や天命)を磨くことで、ゼロ(空)の状態になり、本殿で志を奏上します。本殿にはイエスキリストといった「誰か」は存在しません。きちんとした神社であれば、本殿の中に「鏡」があります。鏡は日本神話において「三種の神器」の一つ(詳しく知りたい場合はググってください)。本殿に辿り着くと目の前に鏡があり、映し出されているのは自分自身というわけです。

つまり、神々(他人)にお願い事をしに行く場所ではなく、自分自身と向き合い、自分自身がこの人生で何を成し遂げるかを天地宇宙(人知が及ばない大自然、全情報、クラウド)に宣言する場所です。

 

正しい禮をすることで自身がゼロ化され、「我(エゴや欲)」を無くした状態は、「かがみ」の「が(我)」が無くなった状態。つまり、鏡の前に映る自分自身は我(が)がない→「か(が)み(鏡)」→「かみ」→「神」という仕組みです。

神というのは、わかりやすく言うと「赤ちゃん」のことです。

赤ちゃんは言葉をもたないので、誰ともぶつかることがないし、その場にいるだけでみんなが笑顔になり、みんなが調和しますよね。そして、これから先、どんな人生も自分で創っていける存在です。本来、すべての人は赤ちゃんで、ゼロの状態だったわけです。そこから色んなことを学び経験する中で、固定概念を創ってしまったり、不浄なものを受け入れてしまい、自分自身(天命や魂といったもの)が見えなくなってしまいます。それを禊ぐことで、自分自身に戻る場所が神社です。

 

本殿までの道を「参道」と言いますが、参道とは「産道」という意味も含まれています。「サンドウ」という同じ音の響きですよね、日本語は古典の「掛詞」でもわかるように、同じ音(響き)に複数の意味が含まれています。鳥居は女性の股の象徴であり、参道とは「神(赤ちゃん)であることを思い出した自分が通る道」です。

参道を歩く時、「真ん中は神様の道だから歩いちゃいけない」と言われますが、これを聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。じゃあ、その神って誰のことなのか?という話です。キリスト様、ではないですよね日本においては。神道においては、その神とは「自分自身」なので、きちんとした禮と志の上場を通して参拝を行ったら堂々と真ん中を歩いていいのです。なぜなら、自分自身が赤ちゃん(神)であるから。

こんな凄い仕組みを昔の人たちは考えて、この日本という土地に8万社も創ったのです。これは本当に凄いことですよね。主体者は自分自身だ、というのを思い出させてくれる素晴らしい仕組みが神社です。一神教であれば一人の絶対的な存在がいて、ヒトはその大いなる存在よりも劣っている、というところからスタートしたりします。そもそも劣等感を感じた存在としてヒトが設定されたりしていて、主体が自分の中にないことがありますが、日本の神道の場合は「自分自身が主体であり、主体性100%で、この世界をより面白い世界に自ら創っていける」ということを説いているわけです。

 

 

・・・

 

つまり、自分の人生を自分が主体となって創っていくための場所です。

 

上手くいかないことを他人のせいにしたり、

他人の考えや情報に流されてしまったら、

一度きりの人生が勿体ないですよね。

 

 

今の日本は立志という文化がなくなり、

自分の人生がわからなくなっている人が多いです。

 

若者の自殺率が世界一位。

精神科病棟の数が世界一位。

寝たきりの人の数が世界一位。

食品添加物の数も世界一位。

(正確な数字は今変わっているかもしれませんが、少なくとも世界トップクラスの良くないです)

 

これは大変な状況です。

 

 

そういうことを知った時、

「僕はなぜバスケットボールをしているんだろう?」

という事を考えました。

 

その結果、僕はバスケットボールを通して志や禮を伝えることが自分の役目だと思いました。

 

 

今回、高校生たちに出してもらった

「なりたい選手像」というのは、スポーツ版の「志」です。

 

「自分はチームのために、自分の得意な~を活かして、〇〇〇な選手になります」

 

そう、チームの前で宣言して、

みんなからそれを認めてもらう。

 

高校生に伝えた時は、今書いてきたようなことをすべては話さず、

もっとライトに、バスケットボールに活きるような形で伝えました。

いきなり学生にとってあまり馴染みのない話(志や日本のこと)をされてもポカーンとしてしまいますからね。

 

 

自分のなりたい選手像を

仮でもいいので設定することで、

 

大事なことは

・自分やチームの日々の成長を実感できる

ということです。

 

他人と比較しすぎず、

日々の成長を楽しめるかどうか。

 

僕が志の話で一番伝えたかったのはこのことです。

 

憧れも大事だけど、それだけを追いかけてそこと比較するだけでは、

「自分自身」がなくなって、自分自身がわからなくなってしまいます。

 

これはバスケにおいても人生においても言えること。

 

いきなり人生の志を立てることは難しい(ちゃんとした場を設定したり、プロセスを踏まえる必要があります)ですが、

せめて、好きで始めたバスケットボールで、自分のなりたい選手像を自分で決め、そこに向かうプロセスを楽しんでいく。

 

そういう選手が増えたらいいなぁと思っています。

 

もちろん指導者の方も、

指導理念(志)をもって

バスケットボールに関わってほしい。

 

そう思っているので、今回のようなワークは今後も伝えていきます。

 

 

 

・・・と、

 

このあたりは文字にするよりも、

実際に体験することで伝わることであるので、

 

この話はこの辺で終わりにして、

 

 

続いて、バスケットボールの話を。

午後は体育館で賢者籠球を伝えました。

・ロンド
・サークルムーブ
・バックカット&ダブルパンチ

 

◆ロンド

ロンドとは賢者籠球において重要な練習として位置付けているもので、もともとはサッカーで行われているアウトナンバーゲームです。サッカーではバルサといったプロチームもやっている練習で、単なるアウトナンバーゲーム(「鳥かご」と呼ばれるもの)よりも深く、様々な技術が身につく練習です。それのバスケ版を賢者籠球では伝えています。

あえて狭いスペースでプレーすることで、プレッシャーを受けた中でも冷静にプレーする判断力や技術力が身に付きます。ただ、これもどれだけ本氣で取り組めるかが全て。なんとなくやっているだけでは上手くなりません。本氣で「ここにバスケットボールのすべてが詰まっている」という氣持ちで取り組めば、様々な技術が身に付きます。「教えられない技術」が身に付きます。スイッチの瞬間やゾーンアタックで必要な「隙間の技術」も身につきます。一言でいえば「駆け引き」が上手くなります。

ARVE Error: Mode: lazyload not available (ARVE Pro not active?), switching to normal mode

 

◆サークルムーブ

ドライブはバスケットボールで一番多いプレーとも言えます。どんなオフェンスシステムを採用していたとしても必ずドライブは起きます。そこで良い合わせができるかどうか、オフボールの動きはとても重要です。

その基本となるのが「サークルムーブ」と呼ばれる、ディフェンスの背中に合わせる動きです。これは僕の情報発信の原点でもあり、今でもオフボールの合わせで最重要だと思っていることです。今となっては当たり前の基礎ではあるのですが、ここに「バックカット」の要素も加えて伝えました。

高校生は「自分が得点を取りたい」という氣持ちが(いい意味で)ある年代だと思いますし、僕もそうでしたが、オフボールの合わせの楽しさを少しでも実感してくれたらいいなと思って伝えました。オフボールの合わせ方によって、シュート力も、ターンオーバーの質も変わります。

 

◆バックカット&ダブルパンチ

賢者籠球の中心「バックカット」についても、2人の崩しから丁寧に。その後は「3人の崩し」である「ダブルパンチ」についても、プレーパターンを練習した後に対人を行いました。

バックカットは誰でもできるプレーですが、なかなかちゃんと教わったことがない選手がほとんど。そして、それを「武器」にするまで深めたことがないチームが多いと思いますが、バックカットには「賢者は強者に優る」に通じる深さがあります。プレッシャーをリリースできる、身体能力や身長で勝る相手からもチャンスを創れる、パスが好きになる上手くなることでチームプレーが楽しくなる、など様々な効果があります。

「ダブルパンチ」は、賢者籠球で伝えているプレー。スクリーンプレーのことでもあるのですが、スクリーンプレーの際に「バックカットを表」にすることで、よりチャンスを創れるようになります。この日は半日だったので、導入についてくらいしかできませんでしたが、それでも3対3の中でダブルパンチでチャンスが生まれていました。バックカットは一つの選択肢でしかないですが、深めていくことで今までよりも更に面白く強く上手いバスケットボールを創っていけると感じました。

これからのチームの成長が楽しみです。

 

 

高校時代、僕は鬼キャプテンで、

自分にもチームメイトにもとにかく厳しく、

「走らないと勝てない」「厳しい練習をしないと勝てない」「強豪校のバスケが正しい」

と信じて、部活に全エネルギーを注いでいました。

 

その経験があっての今ではありますが、

自分の勘違いや視野の狭さで、先輩やチームメイトには迷惑をかけてしまいました。

 

でも、その経験を含めて、

高校生たちに禮や志、バックカットを伝えられたことは、

とても嬉しかったです。

 

これができたのも声をかけてくれた先輩の村上さんのおかげです。

 

ありがとうございます。

 

 

今回の勉強会の内容は撮影させていただいました。

コミュニティ内限定で公開するか、Youtubeに公開するかはまだ決まっていませんが、これからもバスケに関わる人に「禮と志」「バックカット」を伝えていく活動をしていきます。

 

バスケの上達、チームの勝利、人格の向上

 

この3つが同時に達成されるような、

人生を通して日常のすべてに活用できるような、

そんなバスケットボール「大和籠球」を創っていきます。

 

お世話になった母校に貢献できたことが何よりも嬉しいことでした。

 

村上さん、川口先生、選手のみんな、ありがとうございます!

 

 

 

PS.

定期的に勉強会(直接指導)を開催しています。

 

詳細と参加申請は、以下の案内文から↓

勉強会 案内文

 

 

PS.

原田毅ストーリー

※高校時代の話もしています

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