こんな部活動を見ました。
・試合中に選手よりも指導者の方がよく喋っている(怒鳴り声を上げている)
・選手がボールを持ったら、「ドリブル!」「パス!」「一対一!」と次のプレーを指導者が指示する
・指導者の指示通りにプレーを行わなかった生徒は怒られる
・練習試合を終えた後、体育館が使えるのに誰一人として自主練や遊ぶことをせずバッシュの紐を緩める
選手は指導者の駒ではありません。
指導者が求める答えを探し、指導者の言う通りにプレーすることに、どんな意味があるのでしょうか。例え、それで勝利したとしても、選手は楽しいと思えるのでしょうか。指導者は何を目的にバスケットボールを教えているのでしょうか。選手はボールを持っても常にパスするところを探し、ベンチでは指導者の指示に対して「はい。」と返事をするだけでした。
バスケットボールの影響は日常にまで広がっています。スポーツは、もともと人間の遊びとして生まれたものです。しかし、そのスポーツへの関わり方次第では、頭が硬く視野が狭い人間をつくりあげてしまう可能性も同時にあります。自分の頭で考えて、自分の感性で感じて、個性を出していけるところがスポーツの楽しみであるし、そうであるべきです。
「考えろよ!」
こんな声も飛び交っていました。
このような場においては、選手が考えることは、「今の状況で、バスケットボールとして最善の選択は何であるか?」ではなく、「指導者に怒られないようなプレーをするには、どうしたら良いのか?」です。誰かのためにプレーしたいという感情は、自然と生まれてくるものであって、他人が強制的に生むものではありません。まず、自分が楽しまなければ、誰かを楽しませることはできません。
バスケットボールをすることで、新しい出会いが生まれ、勝つ喜び・身体を動かす楽しさ・人間の可能性を広げる楽しさを知れます。これは言葉にしたらただの綺麗事になってしまうんですが、ああいう場を見ると、そんな当たり前すぎることを改めて感じてしまいます。それくらい、あの場にいるのは辛い時間でした。
でも、今日見た指導者の方もバスケが好きで指導を始めたはずです。結局は、過去に受けた教育が原因で視野を狭くしてしまっているだけであると思います。僕もかつては自分の身近にある情報が全てだと思って、外の世界に学びに行こうと思っていませんでした。素直でもなかったし、学ぶ楽しさも知りませんでした。今日見た指導者の方も、学ぶ楽しさを知らないことで世界を狭めていることに気づいていないだけで、ただ違う選択肢にまだ出会えていないだけだと思います。だからこそ、僕が発信をしていく価値があると思って、こうして記事を書いています。
本当に教育って全てです。生まれた時は誰もが赤ちゃんであり、その後の教育によって、価値観に差が現れます。教育とは、それほど大きな影響を与えます。教育ができるのは、言葉を知り、思考できる人間です。人間だけが試行錯誤でき、自由に遊ぶことができます。生物やロボットにはできないことです。教育とは、価値観を押し付けるものではなく、人を導くものです。答えは人それぞれ違うため、答えを他人が押し付けることはできません。本質やヒントを伝えることができるだけです。
大人は、常に学び続ける必要があります。
「学校を卒業したら勉強する必要がない」なんてことはありません。一生勉強です。学校は勉強する楽しさを学ぶ場所であって、その楽しさを活かしていくのは大人になってからです。知らないことを知れば、今まで暗闇で見えなかった面白い世界にスポットライトが当たります。いつの時代でもあっても、それは変わりません。バスケットボールの守備範囲を広げ、頭を柔らかく使い、学ぶ楽しさを知れるスポーツマンが一人でも増えていくことを願っています。
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